|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi)
王則(おう そく、Wang Ze、? - 1048年)は、北宋の仁宗の時代、河北で反乱を起こした指導者である。生まれは涿州(今の河北省涿州市)である。 == 生涯 == 王則はもともと涿州の農民であったが、飢饉が続いたので貝州(今の河北省清河県の西北)に逃げ、雇われて羊飼いをしていた。後に宣毅軍に入り、下士官になった。しばらくして、弥勒教に参加した。慶暦7年(1047年)、教首李教とともに、翌年の正月に反乱を起こすことを計画した。そのため、一度涿州に戻り母親に別れを告げている。信者の潘方淨は、刃物をもって北京(今の河北省大名県)に行き、留守の賈昌朝に会い、投降を迫ったが、逆に捕らわれてしまった。そのために秘密が漏れ、王則は慶暦7年11月の冬至に反乱を始めた。その時、「釈迦仏は衰え、弥勒仏の世が来た」をスローガンにした。さらに知州張得一を逮捕した。王則は、推されて東平郡王となり、張巒を宰相、卜吉を枢密使とし、胡永児を皇后とした。国号を安陽とし、年号を得聖(徳聖)とし、12月を正月とした。戦士の顔に「義軍破趙得勝」(義軍は趙を破り、勝を得る)と入れ墨させて、反抗の決意を示した。 参知政事文彦博は鎮圧を奏上し、慶暦8年正月に河北宣撫使に任命され、明鎬を副使として、貝州を包囲した。しかしなかなか落ちず、地下道を掘って場内に潜入し、王則、張巒、卜吉などは東門を突破したが、捕らえられた。残りの者は「餘黨保邨舎、皆焚死」とあるように、死亡した。王則は、東京(今の河南省開封市)で斬首された。この反乱は前後65日であった。この反乱は、『三遂平妖伝』のもとになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「王則 (宋)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|